御祭神
御由緒
村上天皇の御代、応和元年(961年)に肥後の国司として紀師信公が当国赴任の際、茶臼山南麗(現花畑公園)に、肥後の国の守護神として祀り、宮城の四隅に木を植えて四木宮と称したのを創祀とします。
慶長七年(1602年)、国主加藤清正公が茶臼山に熊本城を築城するにあたり、「尚城頭より見下ろすことは甚だ恐れ多し」として、白川河畔、本荘の地に遷座されました。寛永十四年(1637年)藩主細川綱利公が幼少にして襲封され、“これ一に神徳の加護によるもの”として、旧来の「四木宮」を「代継宮」と改称せしめ、自筆の神号額を献奉されました。天明元年(1781年)細川重賢公は社殿を造営し、先祖細川藤孝公を合祀して、和歌管絃祭を行なわれました。
白川改修工事に伴い、平成元年、現地(立田山東峰天拝山頂上)天を拝む山に社殿を造営して遷座されました、由緒深き古宮であります。
当宮は、その名の由来通り、”代を継ぐ“神社として、家督相続祭・後継者継承・安産祈願祭・子宝の神として信仰されております。
また、参勤交代時代、安全祈願祭が執り行われた、代継宮海陸航路安全守護の御札や、熊本の最古の地図があるとおり、交通安全の神としても尊崇されております。
“たらちねの親につかえてまめなるが 人のまことの始めなりけり“ 明治天皇御製
(今日まで、這えば立て、立てば歩めとはぐくみ育てられた親のご恩に感謝し忘れることなく、親から子へ、子から孫へと次世代へ続く生命の繋がりを尊び、発展的に未来へと受け継いでいきましょう)
代継太鼓
安永七年(1778)、肥後藩の名君と謳われました細川重賢公の御代府中に大火があって代継宮も類焼の災禍をうけ、その年にたまたま悪病がはやり、庶民の苦しみを見られた藩主重賢公は、大変心をいためられ、かねて信仰しておられた代継宮を造営、代継太鼓を奉納されて、すさびはてつつあった庶民の生活をもとに復しようと、太鼓の響で活気をつけて、庶民の連帯感・心のふれあいをとり戻して幸せな生活ができるように祈願され、今に保存されたものです。
境内のご案内
古事記によると、「イザナギノミコト」と「イザナミノミコト」が降り立ち、御二人で『天の沼鉾(ぬぼこ)』を手に取り日本の国をお造りになったと言われる、まさに愛の始まりの場所です。あなたの大切な方とご一緒に、天に最も近い神の御橋で永久の愛を誓いましょう。
●縁結びをお願いされたい方…男性は《別れ橋》、女性は《出会い橋》の対岸から互いにお進みになり、中央で本殿に向かって一礼して御二人で《出会い橋》の方へ降りてください。
●出会い(良縁)を希望される方…願いを祈願しながら《出会い橋》側からお渡りください。
●悪縁を断ちたい方…願いを祈願しながら《別れ橋》側からお渡りください。※厄除けの方もお渡りください。